第18回:逆選択とモラルハザード 2003年3月8日(土)

前回までの知識の泉では、消費者(需要側)も企業(供給側)も、財やサービスの品質について費用をかけることなく、充分な情報を獲得できるという前提で分析してきました。このような前提は、市場において取引される財やサービスが単純なものである場合には、それほど大きな問題にはなりません。しかし、市場で取引される財やサービスが複雑になるにつれて、品質に関する不完全情報を原因とする市場の取引費用は、無視できない大きさになります。また、財やサービスの種類によっては、どんなに情報収集の費用をかけても、結局本当のところはよくわからないというものも少なくありません。例えば、薬の場合は、薬を飲んだ後で異なる病気が発生しても、その病気が薬の副作用なのかそうでないのかは、飲んだ当人にはよくわかりません。しかし一般的に、売り手である製薬会社は薬の効き目や副作用について買い手よりもよく知っています。このとおり、需要側と供給側とで、財やサービスの品質に関する情報量に違いがあることを、「通信的不確実性」といいます。

前回の知識の泉で、「情報の非対称性」が存在する場合には、保険会社は保険を供給することができない、と書きました。この「情報の非対称性」は、上で説明した通信的不確実性にあたります。では、どうして通信的不確実性が存在するときに、保険会社は保険を供給できないのでしょう?たとえば、入院保険の場合を考えてみましょう。保険会社は、人々の平均的な入院の確率を計算して、保険料を決定していると仮定します。この場合、健康で入院の確率が平均的な確率よりも低い人々は、保険料が高すぎるために入院保険に加入しようとはしないでしょう。その結果、入院保険に加入する人は、身体が弱く入院の確率が平均を上回る人々ばかりになってしまいます。つまり、保険会社としては入院の確率が低い人を被保険者として選択しようとしているのに、逆に入院の確率が高い人を選択してしまうわけです。このことを、「逆選択」といいます。

逆選択が発生すると、保険金の支払いが保険会社の予期していた以上のものになってしまうので、保険会社は最初に設定した保険料では採算が取れなくなります。そこで、採算を取ろうとして保険料を引き上げると、入院の確率が低い人にとってはますます加入することが不利になるので、入院の確率がいっそう高い人だけが加入することになり、保険会社の採算はさらに悪化します。こうした過程が続けば、極端な場合には保険を供給すること自体が不可能になってしまうというわけです。

そこで、保険会社は逆選択を防止する手段をいろいろ工夫します。逆選択を回避する第1の方法は、団体保険です。これは、被保険者が、ある特定のグループ(たとえば会社や特定のクレジットカードの利用者グループなど)に属していることを、保険加入の条件とするものです。人々がある特定のグループに属していれば、逆選択の確率はある一定の率に落ち着き、採算の取れる保険料を決定しやすくなるからです。第2の方法としては、保険料と保険でカバーする範囲の異なる、複数の保険を売りに出す方法です。たとえば入院保険の場合、保険料が安い代わりに医療費の負担に上限を設けたり、医療費の一部を自己負担させる保険と、保険料が高い代わりに医療費の全額を保険会社が負担する保険とを売りに出すのです。健康に自信がある人ならば前者の保険を、自信のない人なら後者の保険を選ぶでしょう。このように、2組の保険を供給することによって、被保険者を入院の確率が低いグループと高いグループとに分類することができれば、いずれの保険についても採算が取れるようになります。被保険者自らにいずれかの保険を選択させることによって、逆選択に伴う問題を回避する方法を、「自己選択メカニズムを利用する」といいます。

保険の供給を妨げる原因として、「モラルハザード」の問題も非常に重要です。たとえば、健康保険によって医療費がカバーされると、人々は保険に加入する前よりも健康に注意しなくなったり、病気になっても休養を取らなくなったりする可能性があります。自動車保険によって人身事故や接触事故の費用がカバーされると、運転に際して保険に加入する前よりも注意を怠るようになる可能性があります。このように、保険契約が人々の動機や行動に与える逆効果のことを、モラルハザードといいます。

モラルハザードが発生すると、保険契約にあたって想定した事故確率や通院する確率が変化してしまい、保険会社は採算が取れなくなる可能性があります。保険会社はモラルハザードが原因で起きた事故に対しては、保険金を支払わないという契約を被保険者と結んではいますが、実際に事故が起きたときにその事故が環境が悪かったために生じた不可避の事故だったのか、それとも運転者の注意が不充分だったための事故だったのかを保険会社が識別して立証することは、必ずしも容易ではありません(後者の場合が、通信的不確実性ですね)。このような場合には、保険者は事故という結果を見ただけではモラルハザードの存在を立証することは難しく、モラルハザードが原因で起きた事故に対しても保険金が支払われる可能性が存在します。よって、被保険者にはモラルハザード的な行動を取ろうとする誘因が働きます。

保険会社はモラルハザードの存在を立証することが困難なため、モラルハザード自体が発生することを防止する工夫をします。その方法の1つは、ある種の損失や、損失が一定額以下または以上の場合には、保険のカバーから除外したり、損失の一部を保険で負担して、残りを自己負担させるというものです(←これを共同保険といいます)。たとえば、自動車保険には事故に伴う3万円以下の修理は、保険でカバーしないという免責条項があります。これは、少額の修理でも保険でカバーすると、運転者が注意を怠り、接触事故の確率が高くなるからです。また、健康保険における、本人の初診料1割負担・家族3割負担というのも、保険で全額カバーすると、保険に加入していなかったならば休養したりして治すような病気でも、通院しようとするからです。モラルハザードを回避する第2の方法としては、自動車保険で採用されているような、保険契約の更新時に、それまでに保険金の支払請求がなかった場合には、保険料を割り引く制度を採用することです。これをメリット制といいます。

…以上のような方法を講じても、モラルハザードを十分に防ぐことができない場合もあります。これによって保険会社の採算が取れないような場合には、民間保険会社は保険を供給することはできなくなります。

さて、次回はインフレーションについて書いてみようかなぁ、と思ってます。

※「レモンの原理」…アメリカの経済学者・アカロフは、中古車市場を例に取り上げて、財やサービスの品質に関して情報の非対称性が存在するとき、市場が効率的な資源配分に失敗し、その財・サービスを取引する市場そのものが存在し得なくなる可能性があることを示しました。質の悪い中古車を「レモン」に、質のよい中古車を「ピーチ」にたとえ、中古車市場で取引される中古車がレモンのみになってしまう、これを「レモンの原理」といいます。機会があったら、「レモンの原理」ネタでひとつ書いてみようかな♪

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