第43回:資源の分配C 2003年10月4日(土)

完全競争市場は、外部性など市場の失敗をもたらす要因が存在しなければ効率的な資源配分を達成しますが、そのときの所得分配は公正な分配であるとは限りません。市場経済においては、市場で高く評価される生産要素を供給することができる人ほど、より多くの所得分配を受けることができるので、人々の間に所得分配について大きな格差が生ずる可能性があります。効率的な資源配分の中には、所得格差が大きくなる資源配分もあれば、所得格差が小さくなる資源配分もあります。資源配分の効率性基準は資源配分に関する基準ですから、いずれの効率的資源配分が望ましいかについては判断を下し得ない基準です。そこで、公正な分配がどのようなものであれ、まず効率的な資源配分を達成して、所得を最大化した上で、その後に税と移転支出の組み合わせによって公正な所得分配を達成すべきであるという考え方があり得ます。これはつまり、まず社会的厚生を最大にしてから、その厚生を人々の間に公正に「再分配」しようという考え方です。

いま、ある人の所得が公正な分配から見て低すぎるとしましょう。この人の所得を公正な分配から見て妥当な水準にまで引き上げる1つの方法は、貨幣を無償で供与することです。これを「貨幣による所得再分配」といいます。政府の予算では、移転支出に分類される生活保護費や児童手当などの公的扶助がこれに該当します。それに対して、所得が低いことだけが問題ではなく、低い所得のために特定の財・サービスの消費水準が低いことが問題であるという考え方があります。たとえば、所得水準が低いために、栄養が十分摂れる食事ができないとか、非衛生的で雨露も十分しのげないような住宅に住まなければならないとかいった状態に陥ることは公正ではないという考え方です。この考え方からは、所得水準の低い人に貨幣で再分配することは望ましくなく、食料や住宅サービスを無償あるいは市場価格よりも安い価格で供給することが望ましいです。このような再分配を「財による再分配」といいます。

上の2つの再分配に関する考え方の相違は、財に対する社会的限界評価に関する考え方が異なるために生じます。貨幣による再分配を望ましいと考える人は、再分配を受けた人の効用を尊重し、彼が自らの効用に基づいて財に与える限界評価を社会的限界評価として受け入れるのです。これは「消費者主権の基準」と呼ばれます。すなわち、社会的厚生を定義する上で、消費者の需要曲線によって示される限界評価を社会的限界評価として受け入れるのです。

それに対して、特定の財で再分配することを支持する人は、再分配政策においては再分配を受ける人々の消費者主権を認めるべきではなく、社会的な観点から望ましいと考えられる財の消費を促進すべきであると考えます。貨幣で所得を再分配して、それが賭け事やぜいたくな財の消費に使われることは望ましくないと考えるのです。このような特定の財による再分配は「温情主義的所得再分配」とも呼ばれます。ただし、財によって再分配しても、たとえば高齢者の無料のバス利用券のように使われずに捨てられてしまう場合もあり、必ずしも特定の財の消費が促進されるわけではない点に注意が必要です。

日本における財・サービスによる再分配のうち最大のものの1つは、無償の小・中学校の義務教育サービスでしょう。教育サービスは価格(入学金と授業料)と試験とによって、試験に合格しない者や合格しても価格を支払わない者の消費を排除することができます。それにもかかわらず、義務教育は国民全体の税金の負担において全ての義務教育年齢層に無償で公共財として供給されています。ただし、義務教育サービスを供給する機関は公的機関だけとは限らず、私立の小・中学校も義務教育サービスを供給しています。しかし、その場合でも国の資金援助を受けるとともに、国によって決められた一定の指導要項にしたがって、教育サービスが供給されているのです。

それでは、義務教育はなぜ公共財として供給されているのでしょうか?その理由としては次の3つが挙げられます。まず第1に、誰もが最低限の読み・書きと計算能力を備えていれば、一国の生産性は高まり、国民の全てが利益を受けます。また、教育によって人々が社会常識とコミュニケーション技術とを身につけることも、全ての国民にとって利益になるでしょう。この意味で、義務教育サービスの消費には外部経済が存在します。外部経済が存在する財は、個々の消費者が消費する以上に補助金などを支給することによって消費を促すことが、効率的な資源配分を達成する上で望ましいです。

第2に、義務教育を受けることは本人にとっても極めて価値は高いが、本人や保護者の自由な選択に任せていたのでは全く教育を受けようとしなかったり、受けたとしても教育の真の価値に見合うほどには受けなかったりする可能性が高いという理由です。その場合には、教育を受けなければ、本人自身教育の価値を正しく判断することはできないという点が、特定の財による再分配の根拠として特に重要です。すなわち、義務教育に関しては本人や保護者に消費者主権を認めると、結果的に本人にとってもまた過小消費になるという可能性が高いのです。高齢者の無料バス利用券も義務教育も社会がそれを消費することに価値があると考えて再配分するという点では共通しています。そこでこのような財を「価値財」と呼びます。低所得者への公共住宅の供給や、一般の人々に対する住宅金融公庫による市場の金利より低い住宅貸付も、社会が住宅サービスを価値財と考えているから存在する制度だといえます。

そして第3の根拠は、「機会の平等」を重視する立場からのものです。たとえば、ある人の賃金が高いのは、その人の限界生産力が高いからであったとしても、そもそも限界生産力が高くなったのは、その人が親の負担で教育を受けることができたからかもしれません。このように親の負担能力によって子どもの所得分配が左右されるのは公正でないという考え方があります。これは全ての人にとって機会は平等に開かれているべきという考え方があるので、「機会の平等主義」と呼ばれます。機会の平等主義からは、高校・大学教育に対する公的負担による授業料等の軽減や、市場金利よりも低い金利での奨学金貸付制度や、相続税や贈与税の強化および職業選択や移動の自由といった政策も、重要な所得再分配政策になります。

上で述べたことからもわかるように、効率的な資源配分を達成して、社会的厚生を最大にするためには、社会が価値財として合意する場合を除けば、再分配の手段としては財による分配よりも貨幣による分配のほうが望ましいです。しかし、その場合にも以下のような問題が生じます。まず第1に、貨幣や価値財の再分配額が大きくなるにつれて、再分配を受けた人々の勤労意欲や貯蓄意欲が低下する可能性があります。スウェーデンやイギリスなどの高福祉国では、高福祉政策による勤労意欲の低下が、自発的失業者や欠勤の増大などの生んでいるといわれています。それは高福祉政策による移転支出や価値財の無料ないし低価格の供給によって、働かなくても生活できるようになるからです。また、将来の生活の安定のための貯蓄の必要性も低下します。勤労意欲の低下は生産性の低下を招き、貯蓄意欲の低下は実質利子率を高めることによって投資を抑制するので、将来の生産性の低下を招きます。第2に、再分配するためには、政府は財源が必要です。そのための主たる財源は税金です。ところが、税金の徴収自体が非効率な資源分配を招く可能性があります。第30回の知識の泉で説明したように、個別間接税は超過負担分だけ社会的厚生の減少をもたらします。また、所得税についても所得税課税によって労働供給が減少すれば、課税による超過負担が発生します。このように、所得再分配政策には、再分配を受ける側にも、税金を負担して再分配する側にも、非効率な資源配分をもたらすような誘因が存在します。これを「効率性と公正な分配のジレンマ」といいます。

ところで、税が課せられた財やサービスの価格弾力性が小さければ小さいほど、超過負担は小さくなります。したがって、公正な分配を達成するための財源を、価格弾力性の小さな財・サービスに税金を課すことによって徴収すれば、それだけ資源配分の効率性を阻害せずに済みます。第3回の知識の泉で、土地の所有者はその土地を転用するための費用がゼロであれば、地代がいくらであろうと土地を最大限供給しようとすることを説明したと思いますが、これはすなわち土地の価格がいくら変化しても土地の供給量は変わらないということであり、土地の供給の価格弾力性がゼロであることを意味しています。よって、土地保有税は、税が課せられても土地サービスの供給量が変化しないため、超過負担を生みません。したがって、土地保有税は所得再分配のための資金を調達する上では望ましい税ということになります。

次回からは、補説コーナーです〜。。。

※土地の転用費用がゼロじゃないときは?…本文の最後で、土地保有税は超過負担を生まない税だということを書きましたが、これはあくまで「土地の転用費用がゼロである」ことが前提です。なぜなら、土地の転用費用がゼロでなければ、土地を保有していることの機会費用が正の値になるため、土地の供給の価格弾力性も正の値を取るからです。したがって、土地保有税の超過負担をゼロにするためには、土地の転用費用がゼロでない場合は、土地保有税の課税に際して転用費用を控除する必要があるのです。

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