第42回:資源の分配B 2003年9月27日(土)

前回までは、「消費の非排除性」と「消費の非競合性」という性質を持った財の分配についていろいろと書いてきましたが、今回は「外部性」を持つ財の分配についてお話ししようと思います。ある活動の影響が、市場取引を通さずに各経済主体に及ぶ場合、「外部性が発生している」といいます。外部性の例としては、自動車の排気ガスや工場の煤煙による大気汚染、工場排水や生活排水による水質汚濁、自動車の走行に伴う騒音や振動、そして第26・27回の知識の泉でも書いた「地球温暖化問題」などがあります。第26回の知識の泉でも説明した通り、外部不経済が存在すると、私的限界費用と社会的限界費用とが乖離するので、市場は「社会的厚生の最大化」という意味での効率的な資源配分に失敗します。

しかし、外部性を持った財でも、政府の炭素税や規制などによる介入がなくても、民間の自発的な交換取引によって効率的な資源配分を達成することは可能だという考え方があります。たとえば、いま、マンション販売業者があるところでマンションを建設して販売しようとしているとしましょう。それに対して、建設予定地周辺の住民が、環境が悪化することを理由にマンション建設の反対に立ち上がったとします。この場合、日本ではマンション業者が周辺の住民に補償金を支払ったり、集会所などを提供したりすることによってマンション建設が可能になるケースもあります。これは、マンション建設によって周辺の住民が被る日照の減少などの外部不経済を、マンション業者と周辺の住民との間の取引によって解決するという意味で、自発的交換取引の一例です。これは、「外部性の市場による内部化」とも呼ばれます。これは「コースの定理」といい、日照権などの居住環境を享受する権利(以下では「日照権」と呼びます)が既存の周辺住民にあるのか、マンションの入居予定者(マンション業者が、彼らの権利を代行すると考えられます)にあるのかを確定しさえすれば、どちらに権利を与えてもマンションの高さは「マンションの高さが限界的に1階高くなるときに得られる、マンション業者の限界利潤」と「マンションの高さが限界的に1階高くなることによる、周辺住民が被る日照の減少などの限界的な被害」とが一致する水準に決定されるというものです。つまり、何階のマンションが建設されるかは資源配分の問題であるから、コースの定理はいずれの側に日照権を与えても資源配分は変わらないということを述べています。

それでは、コースの定理は現実にうまく機能するのでしょうか?コースの定理では、外部性を市場で交換取引するときに取引費用はかからないと仮定されています。しかし、現実には取引費用は無視できない大きさになる可能性があるのです。まず、日照権が周辺住民にある場合を考えると、周辺住民の中には日照権をできるだけ高く売ろうとして、他の住民がマンション業者と合意に達してもマンション建設に反対する住民が存在する可能性があります。交渉が長引けば長引くほど、マンション業者の利子等の金銭負担や得られるであろう家賃収入や分譲収入を失うことによる損失は増大します。これらはマンション業者が負担しなければならない取引費用です。この取引費用が、マンション建設投資の利益を上回れば、マンション業者は建設をあきらめるでしょう。これによってマンション業者、したがってマンション入居予定者も周辺住民も損失を被ります。周辺住民の一部がいわゆる「ゴネ得」を狙って交渉を長引かせることができるのは、マンション業者が一部の住民の日照権を購入しただけでは建物を建てられないからです。これは個々の消費者が公共財の一部だけを消費することができず、その全てを同時に消費しなければならないという性質と基本的に同じです。すなわち、この場合の日照権はいま述べた意味で公共財の性質を持っています。

他方、マンション業者が日照権を持っている場合には、周辺住民の中に「自分は日照などなくてもいいので、マンションの高さを低くしてもらうために一銭たりとも払うつもりはない」という人が出てくる可能性があります。これは自分が負担しなくても他の住民が負担してくれれば、マンションの高さが制限されて日照が得られる可能性があるからです。これもこのケースの日照が、日照権に対して負担しなかった者の消費を排除できないという意味で、公共財であるために生ずる「ただ乗り」現象です。

いま述べたような「ゴネ得」と「ただ乗り」現象は、公共財やそれと似た性質を持った財についてはしばしば見られる現象です。この現象は、交渉すべき関係者が多くなればなるほど、発生する可能性が高くなります。なぜなら、「自分一人がゴネ得を狙ってもマンション建設あるいは公共財の供給が中止になる可能性は低く、むしろ粘れば粘るほど高い補償金が得られる」とか、「自分一人が負担を免れようとしても、他の人が負担してくれるだろう」とかいった期待を生む可能性が高くなるからです。その結果、市場は外部性の内部化に失敗するのです。このように考えると、コースの定理が成立するのは交渉すべき関係者が少数の場合であり、現実問題としてはその適用範囲は狭いといわざるを得ないでしょう。

外部性が存在するときには、私的限界費用と社会的限界費用とが乖離したり(←地球温暖化問題のケース)、私的限界評価と社会的限界評価とが乖離したり(←公共財のケース)して、市場は効率的な資源配分に失敗します。しかし、そもそもなぜこれらの間には乖離が生まれるのでしょうか?上で説明したコースの定理は、両者の乖離は所有権や使用権などの「財産権」を取引する市場が形成できないために生ずることを示しています。ところが、外部性を持つ財についてはこれらの権利がそもそも設定されていなかったり、設定することが困難であるために、市場そのものが存在していません。市場が存在しないのならば、市場が失敗するのは当然です。すなわち、この意味で「市場の失敗」とは、市場を作ることに失敗するということに他なりません。

たとえば、二酸化炭素などの地球温暖化ガスを大気中に排出するということは、大気を排気ガスの捨て場として利用することを意味します。ところが、大気には財産権が設定されていないから、大気を排気ガスの捨て場として使用する権利を取引する市場は存在しません。海や川は公有という意味で財産権が設定されてはいますが、それらを汚染物質の排出場として使用する権利を取引する市場は存在していません。汚染課徴金や炭素税のような「環境税」を導入することは、大気を排気ガスの捨て場として使用したり、海や川を汚染物質の排出場所として利用したりする権利に、政府が価格をつけて、その権利を取引する市場を形成することに他なりません。

次回は資源の分配について考える最終回、「再分配」について書いていきます。

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